先日まで、生活保護なんて遠い土地の話だと思っていた。

自分はおろか自分の近しい人間すら、受けることはないと思っていたので、河本が叩かれる原因となった、近親者の扶助義務も知らなかったし、関係ないことだと思っていた。

ここ最近、自分の身の回りに起こったことと日本の社会保障制度と未来についてまとまりがないですが、メモしておく。


■親族が病気になったので医療費を貸してあげた話


先日、私の義理の姉が急性の腫瘍で倒れた。

腫瘍自体は良性のものだったので大事には至らなかったが、手術で取り除くことになった。

手術も無事成功したが、その姉夫婦には貯金がないらしく医療費が払えないとのこと。

ちなみにその親にあたる、私からは義理の父にあたる家庭にも医療費を払えないらしい。

仕方ないので貸してほしいと、我が家に連絡があったのだが、その金額を聞いて仰天した。

医療費計で15万円とのこと。

多いのではない。その少なさに驚いたのだ。

払えなかった二つの家族は15万円も貯金がないということなのか。

幸いにして医療保険は加入しているとのことで、返済のめどは立つようだが、一時的にでも払えないので貸してほしいとのことで、結局奥さんが貸してあげた。

こんな財政状態なのに医療保険に入っているというのも驚きだが、(保険対象外の損失が発生したらどうするのだ?)父は車を、姉は家(ローンはある)を所有していて、現金をそこまで持っていないというパターンがあることに驚いた。


■扶助義務には管理する権利を付けてほしい


今回はまあ緊急の医療だったので貸すことにしたが、これが何のことはない単なる生活苦だったらどうなるだろう?

車も家も処分した後で、暮らせないなら生活保護を受けなさいと進めることになると思うが、受ける際には近親者が扶助できないかという項目があるという。

強制力も罰則もないとのことだが、貯金や年収がある程度ある場合、親や姉妹を支えてあげないといけないのだろうか?

ここで思うのは親族間の扶助義務というのは民法877条に規定されているらしいが、その根拠はなんだろうということ。

通常、扶養というと親が子供に対する義務が思い浮かぶ。

これは子どもがまだ未熟で自ら一人で生活できないために、親が必ず面倒を見なさいというものだ。

その代り、親には親権というものが備わっている。
判断力が未熟な子供に代わって、子どもに関わる一切の契約行為を代理することが出来る。
(やや違いますが、だいたいそう)

義務に対して権利が一体となっている非常にわかりやすいものです。

これに比べて、親族間の扶助義務には何か権利がついてくるのでしょうか?

仮に私が義理の親族を扶助しなければならないとしたら、彼らの財産を管理する権利を私に欲しい。

生活保護も年金も全て私の手元に入るようにして、そこから小遣いを出してあげるのだ。

もちろん着服するわけではなく、余った分は貯金しておいて、自立できるように収入と支出のバランスを調整してあげる。

それくらいの権利が許されないと、正直私としては親族と言えども扶助する義務を負うことはできない。

社会的にも保護される側よりも、扶助している側の方が、財産の管理能力は高いことが一目瞭然なので、困窮者の減少につながると思うがどうか?


■老人を取るか、未来を取るか


もう一つ、親族(特に親世代)の生活扶助義務に納得いかないことがある。

貯金しているなら親を養えというのは何とも視野が狭くて気に入らない。

貯金が有り余っていて、豪遊しているならいいが、少なくとも私レベルの普通のサラリーマンは無為に貯金しているわけではないと思う。

一つは将来の自分のため。

年金制度が破たんしていることは明らかなので、自分が払った分がしっかりと戻ってきて年金が貯金以上の意味を持つと思っている人は、我々現役世代にはあまりいない。

なので、年金も払っているが、それが0になったときのことを考えて、少しでも貯金しているのだ。

それを現在の親世代に払ったら、今度は将来我々の世代が生活保護対象に堕ちるだけ。先延ばしにしているだけで何も解決しない。

そして、貯蓄のもう一つの目的は子どものため。

私にはまだ子供がいないが、これから作る子供のために貯金をしておきたいという考えは、それほど身勝手なことなのか?

少なくとも私は何の理由もなく、親よりも子どもに自分の財産を譲ろうと思うのだが、みんなは違うのだろうか?

「お年寄りを見殺そう」という第三極の政治勢力

当然、親を養えと短絡的に批判している人たちは単なる視野が狭いのであって、そんなに悪気があるわけではないと思う。

本来は、政治が担うべき領域だ。

長期的に国の行く末を見たときに、少子高齢化が諸悪の根源なのは明らかなのだから、程度の差こそあれ、老人に厳しく未来の子どもに優しい制度を作っていかなくてはいけないのは明らかなのだ。

これは方法論の問題ではなく、方向性の問題としてコミットしておきたい。


■何を捨て、何を取るかが戦略だ


さらにそもそも論として、全てを満たす、全員が幸せになる戦略というのはあまりない。

それは市場を支配した独占プレイヤーにだけ許される戦略だ。

世界という市場の中で戦う日本という国においては、何を捨て、何を取るかという選択をすることこそが戦略になる。

超短期的に、目の前の議席のために現在の老人優先の政策をとっている現状では、当然のように未来の子どもを捨てている。

社会保障制度をいかに維持するか、が論点であり、少子化対策が棚上げになっているのがその証拠だ。

この場合、両方を満たすというのはよほどのウルトラCがない限り難しい。

本来、政治が訴えなければならないのは、いかに膨れ上がった社会保障費を減らし、その分の財源を未来のこどもの成長や教育につぎ込んでいくか、という方向のはずだ。

社会保障費を減らしたら、老人の生活が苦しくなる、という反論をもらいそうだが、当然である。それが選択というものであり、自分たちが選んだ結果はしっかりと受け止めるしかない。

生活保護についても同様で、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した基本的人権を盾に勢力を拡大しているが、これもどこかで歯止めをかけなくてはならない。

この法的根拠はあくまでも権利である。国民全員が、権利を持っている。権利というのは「生きてもいいよ」ということだ。義務ではない。ところが今は全員を「生かさなければならない」と、どこかで義務化して捉えている流れが多いように思う。

備忘録 - そもそもなぜ弱者を救済せねばならないのか

もちろん私も全ての人が基本的人権を持っていることは認めるし、剥奪するつもりもない。が、現実生きることが難しい人を、未来の子どもを滅ぼしてまで生かす義務があるかというと、そうは思わない。

社会保障の問題になると、多くの人が将来の自分を不安視して、「社会保障も欲しい」「でも増税はイヤだ」「少子化対策もやってほしい」と全てを取ろうとするフルライン戦略を布こうとするが、上述の通りそんな贅沢はもう許されないのだ。

ここはひとつ、

「自分は強いから社会保障などいらない。仮に困窮したら殺してくれていい」
「増税は最後の手段だ。社会保障や無駄を削りまくっても足りなければ仕方がない」
「少子化対策はこの国の抱える最優先課題だ。他のすべての予算を削ってでも達成すべきだ」

という形でビジョンを描いてほしい。

選択できないのは政治家だけでなく、国民も同じだ。

ないものねだりをして夢想論を語るのはやめにして、今の日本の現状と将来を見定めたうえで、何を捨て、何を取るのかを議論する政治、国民が見てみたいものです。